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回顧録(終戦直前ーシベリア抑留ー故郷串本まで)

祖父が書き残した大東亜戦争の回顧録です。終戦直前からシベリア抑留を経て、無事故郷串本まで帰還した祖父の貴重な体験記。忘れ去られてしまわないよう、ネット上に残しておきたいと思います。(昭和51年8月12日了)

はしがき

 私はこの手記を若い世代の人たちに読んで戴き、戦争の空しさ愚かさを知って貰い、平和の尊さありがたさが解っていただけたらと念じつつ、三十三年前の記憶を辿り辿り書いたものです。

 終戦直前から帰還までの間は、常に生と死の同居したような生活だったので、記憶の明確さを欠き、思わぬ日数を要し書いては消し消しては補足し乍ら書き綴ったために、文章にならない箇所もあり、誤字や当て字等も多く、又地名場所等も残念ながらいくら瞑想に耽っても出来の悪い頭では如何ともならず、月日の誤差があるかも知れず、大変読み取り難いと思いますが、この点悪しからずご辛抱して読んで戴き度いと思います。

 現在のソ聯は、文化も経済、教育も高度に発展していると思うが、昭和二十年八月から二十三年十月ごろの社会は、以下私の見聞き体験した有りのままを記述しますので、誤解のなきよう解釈して頂き、或る面では進んでいるが、又我々の考えられない遅れた面も有ったようだ。

 この回顧録を書く気になったのは、弟暢男が既に、「ニューギニア戦記」を書き終わり、多くの方々に深い感銘を与えたようなので、自分も我が家の嗣子孫々に伝え、親爺の波瀾万丈茨の足跡を充分表現出来ない所もあろうが、意の有る箇所を汲み取って戴いたらと、悪い頭を絞り絞り八ヶ月を要し書いたものです。

 当回顧録がどうにか本らしくなり、皆様に講読して貰っても冷汗三寸の難から逃れ得たのも、実は元串本中学校校長”浜中岩一氏”の惜しまぬ情熱と改竄の賜ものであり、満腔の敬意を表すものです。之は関連して感想文まで寄せて戴き、指導を仰ぎました串高教頭園部先生、大阪府柏原市在住会社社長、良き戦友でもあった海老江茂氏にも深謝致します。

 私も不幸にして去る二月血圧で五ヶ月間闘病生活の為入院し、多少曲折もあり一時は死も覚悟したが、どうにか今日に立至り回顧録が完成出来得ましたのも、偏に諸先生方を始め皆様のご協力があればこそと改めて御礼申し上げます。

写真:伍長時代 潮﨑泰造

◇ 地名

【羅 津】

 清津の北方にあって、昔は小さな漁村であったが、関東軍は満州の玄関口として着目し、港湾の浚渫改修、広大な埋立をなし、埠頭を完成させて面目を一新した街である。

 満州からは大豆、玉蜀黍、高梁の農作物輸送を強化したが輸送船団の遣繰がつかず、埠頭に数万屯に余る穀物の山が出来ていた。

水産物の漁獲が豊富で、要塞司令部の所在地でもあった。

【清 津】

 清津は、日本海側北鮮随一の良港で、水深あり、数万屯の巨船も入港出来、一万屯級の船なら数隻横付け出来る程であった。

 三菱製錬所や日鉄製鉄所等の大きな軍需工場から、色々な工場が背後に広がる平地に建てられ、商工業・水産業の街として大発展をなした北鮮最大の都市である。

【羅 南】

 成鏡北道道庁の所在地であり、十九師団司令部の所在地で、歩兵二個聯隊・騎兵隊・砲兵隊があり、政治と文化の中心地であった。

 三方を山で囲まれた盆地に、街の大半を占める軍の建物、糧秣・衣服・銃器の倉庫をはじめ、山を削り貫いて造られた大きな弾薬庫があった。

◆ 第一回目の召集

 第一回補充兵召集は昭和十四年八月、戦況も刻々緊迫の度を加え、日支事変から突如ノモンハン事件が勃発。関東軍始っての増強化したが、当時の軍部は、腹背の敵を避ける為か、不利な条件で政治解決した時期でもあった。

 当時の漁業組合広場(現在の日冷工場)で合同壮行式が行われた。

 赤い布(応召串本町)を肩から掛け、同級生倉田修二氏(植松に在所)・西房一氏(矢の熊在所大手豆腐業)の三人で高台に並び、時の町長矢倉岩次郎氏の激励の挨拶、国防婦人会・愛国婦人会長の言葉を頂き、三人を代表して私が御礼の挨拶をした。何せ大勢の前で始めての挨拶なので冷汗が止めもなく流れた事であった。千名余りの大衆であがるのも当然。串小・串商生等の音楽隊の演奏で、「勝って来るぞと勇しく」「吾が大君に召されたる」等の軍歌と万歳の歓呼の声で送られたのである。

「男子の本懐これに優ぐるものなし」とは云うけれども、当時の私は、唯無我夢中と言った方が良かった。

写真:串本を出発する前 潮﨑・西・倉田

 当時の紀勢線は、新宮 – 串本間、天王寺 – 江住間の開通で、儀平菓子店の角からバスに乗り込んで出発した。

 やっとの事で、広島は皆実町の電信第二聯隊に入隊。以来辛酸労苦を嘗め、紀州男子の意気と意地、串本人の根性でじっと我慢、歯を喰いしばって頑張った。

御蔭で昭和十四年十一月、第一選抜で一等兵となった。

写真:広島 第二聯隊の正門

写真:第二聯隊の歴史 軍都広島

写真:通信行動での訓練(送信活字の練習、鰯焚の小生には誠に不得手不得手だが紀州男子の根性で頑張る)

写真:第一中隊通信講堂でトンツー送信の訓練、通信兵なので皆必死で練習

写真:無線通信の野外練習:広島練兵場

写真左:北京黄寺兵営電信第五聯隊 第五中隊(無線中隊)トーチカを背景にてニキビ時代の小生
写真右:電信第五聯隊長 助広中佐 黄寺兵営

 昭和十五年三月宇品港を出発、三月末に北京市電信第五聯隊に到着する。爾来光陰矢の如く流れ、昭和十八年十二月、九州佐賀市にて召集解除となり故山に帰った。

写真:大陸風景(北京郊外を行くラクダ隊商)

写真:潮崎泰造、上等兵時代26歳、北京市内の外出先の生花店前にて

写真:電信第五聯隊演芸会(生地蔵の主役・・・大好評を博し笑いの渦で大成功、平常から母親にオダテとモツコに乗ったらアカンと云われたがちょっと乗り過ぎかな)

写真:電信第五聯隊相撲大会で団体優勝・・・この頃は健康そのものであったが最近は寄る年波に勝てずもうアカン

S17.9

写真:電信第五聯隊相撲大会 団体優勝 北京派遣軍司令部軍通信所(山本隊)狐軍奮斗する三戦三勝

写真:炎天下の強行軍(土も草木も火と燃えて果てなき荒野を踏みわけて)

写真:戦友と共に(北京郊外伍長勤務上等兵時代)共産党のスローガンの壁を背に

写真:北京中華航空用度課長 大島出身 森嶋亀ニ氏(夫人は田辺市出身)随分御世話になり、大正時代、神田清右ヱ門氏大岡林兵衛氏紀水の捕鯨時代の話に花が咲く

◆ 第二回目の召集

 昭和二十年四月、当時本土決戦が叫ばれ、終戦の年とてサイパンは墜ち、沖縄決戦も終結前、日夜の別なくB29・艦載機等の空襲で、全国各地主要都は大打撃を受けている時期で防諜上召集兵の見送りは極質素にと、家族・親戚・友人に、当時防空監視隊副隊長として勤務中だったので、署長以下関係者だけの見送りを受けて、静かな出発をした。

 やっとのことで天王寺に到着、ホームを歩いていると、見掛けた顔だと思ったら、なんと人見一太郎氏(亡前千鳥建設社長)であった。双方笑顔で、

「これから、又行くんかのんし。」

「はい。今からいくさかい、後の事は宜敷頼むよう。」

「よっしゃ。まあ、気付けてくらんし。ご苦労やのんし。」

と奉公袋を持って喜んで帰る人見氏とは対象的に、私の足は重かった。

 時代の流れは如何とも出来難く、好むと好まざるとに拘らず、赤紙一枚で、国の為とか、串本町名誉の為とか、歯の浮くような言葉で送られ、絶えず生死の境を彷徨して、やっと訪れた終戦。平和の光が三年余も届かないとは夢想だにもしなかった。

 今考えてもぞっとする嫌なソ聯での忌まわしい抑留生活で、やっとの事で郷里串本へ帰っても、世間の見る眼は、当時の私に冷たく映り、人を頼ることの愚かさが感じられた。

本文

◆ 東京にて大本営第二無線通信部隊編成 

 第二回目召集を受け、人見氏と袖を別ち、途中空襲を受け、退避を繰り返しつつ東京に着いたが、所々焦土と化し、空襲の可烈さを物語っていた。

 渋谷の野砲聯隊で、間もなく大本営無線第一・第二部隊を編成。第一部隊は国内主要都市、第二部隊は朝鮮京城に本部を置いていた。部隊長は何れも中佐であった。(第二部隊長古川中佐)

 運悪く私の中隊は、北鮮羅津要塞司令部内に置かれ、直ちに軍通信所を開設した。通信所は、所長中尉以下下士官三名、兵二十名の陣容で勤務に着いた。

       

写真:東京にて大本営無線第2通信部隊第5中隊創立幹部一同 間もなく第2無線通信部隊は朝鮮京城に到着、運悪く第5中隊は北鮮、満、ソ国境の羅津要塞司令部内で軍通信所を開設直ちに京城、釜山、東京、伏木、新潟と無線連絡を完了

 通信区域は、東京・京城・釜山・敦賀・伏木・新潟等で、器材は当時としては最新極超短波受信器(大東亜戦争突入の際、米国大使館からの捕獲品)で、性能は抜群。米国の通信状況は、英語さえ解れば手に取るようであった。残念ながら英語はチンプンカンプンで、日本語での日本向け放送を毎日聞いていた。

 強大な軍事力を誇る連合軍の戦果は次々と拡大され、サイパン島も墜ち、沖縄にも火がつき、本土決戦目前に迫り、大本営ニュースも些か不信を買う毎日であった。

羅津近郊の高い山頂からソ聯方面を眺めると、沼湿地帯は遥かソ聯まで霞んで続き、大小・白黒の鴨に似た鳥が、何千羽何万羽ともなく飛んだり降りたりするのが良く見えた。

 羅津より更に北の雄基では、ノモンハン事件で有名な張鼓峯は、日ソ両軍の砲撃戦で、高かった所は低くなり、低かった所は高くなったりしていると聞いた。雄基から北にある小さな駅も、当時ソ聯空軍の機関砲射撃で穴だらけだったとか。

 又、羅津附近の漁港も水産物の水揚げが豊富で、マグロ・ニシン・イワシ・ブリ等は、殆んど軍納となったが、それでも街では魚の配給が相等あったようだ。

 五月六月は空襲も完くなく「どこで戦争しているのか」と思う位、平穏無事、平和そのものだった。

七月に入ると、ぼつぼつ空襲がはじまり、追々と大型機の来襲も頻繁になり出した。主として清津港・羅津港内外に、相等数の機雷を落としていたようだ。

 この機雷も幾種類かあったようである。スクリュウ音の振動をキャッチして爆発するもの、海中で待期していて、船が近付くと進行方向に浮上して船底で爆発するもの。又、一ヶ月から半年先で、忘れられた時分に、音波で順次浮上して船底で爆発するもの等があったとか。

 毎夜定期的に飛来しては、雨のように投下していた。夜山頂に登ると、海面に落とす無気味な鈍(ニブ)い音がブスブスと聞こえて来た。

 翌日は、何事もなかったような静かな海面を、十数隻の掃海艇が出動して、機雷の処理を懸命にしていたが、何時も余り効果がなかったようだった。

 輸送船団が入港の度に、港外に待機して一隻づつ水先案内で入港するが、港口・港内で触雷沈没する船舶が沢山出た。待機中の掃海艇・駆逐艦は、気違いのように高速で走り、爆雷を投下してグルグル回っていた。

 掃海艇が懸命に努力して処分しても、毎夜の空襲で落とす数量が遥かに多く、船舶の被害は鰻昇りのようだった。

 当時の太平洋岸は、制空・制海権を握られ、最後の望みを日本海に託したようだが、やっと羅津、清津港外迄辿り着き乍ら、機雷にやられて沈没する等、残念至極だが事実で、どうにも仕様がなかったのだ。八月に入ると一段と激しさを増し、機雷の数も莫大なものとなった。

◆ ソ聯一方的に対日宣戦布告

 忘れもしない八月八日 (大詔奉戴日)に外出して、夜の二十三時三十分頃通信所に帰って夕食を取ろうとすると、突然空襲警報が出た。今迄は中型爆撃機だったのに、今夜に限り大型機の上に、戦斗機迄、切目なく来襲しては爆弾の雨、機関砲の掃射。それも初めのうちは、要塞司令部内外の重要施設、高射砲陣地等に集中していたが、いつの間にか市内住宅街へも、焼夷弾、小型爆弾等を落し始めていた。

 友軍も猛烈な対空砲火。高射砲・高射機関砲・船舶対空砲等の一斉応戦で、壮烈極まる戦斗状態となった。

 要塞施設街から、アッと言う間に黒煙と共に大火災が発生、阜頭の食糧集積の山も火の海、市街全域真昼のように明るくなり、まるでアメリカ西部劇を見るようで、市内の混乱極限に達した。

 今迄の空襲だと、敵機は南方に脱却していたが、この夜の敵機は皆一様にウラジオストック方面に姿を消し、戦斗機迄続々と飛来するので、中隊本部に連絡した。

 朝迄爆撃の連続。黒煙は天に冲し、埠頭の糧株の山積に火が付き、パチパチと小銃のようにはじき、もう手の付けようがなかった。

 夜明けと共に、敵戦斗機は、港内外の全輸送船団に襲いかかり、吾が方も一斉に応戦、猛烈な砲撃戦となるも、続々と繰り出す新手の急降下爆撃には衆寡敵せず、二十隻余りの全船舶は火災爆発をおこし、沈没全滅した。

 最後迄勇敢に戦った船舶兵・乗組員達は、ヨタヨタしながらやっと岸辺に泳ぎ着くも、二目と見られない悲惨極まる状態だった。

 日の丸の鉢巻きをしたズブ濡れの人達、殆ど重傷で、中には片腕がブラブラの者、片足首が吹飛び血まみれの者、波打際迄泳ぎ付きながら出血多量で倒れる者、抜身の日本刀を杖に、転んでは起き、起きては転び、全身真紅で修羅場と化した。勇敢に最後まで戦い、刀折れ矢つきた同胞の姿に、皆一様に頭を下げていた。

 折から激戦中の敵戦斗機が、大音響と共に墜落したのを見れば、赤星マークのソ聯機と判明、そばには赤い半長靴に生々しい片足が土まみれで転っていたのが妙に印象だった。要塞司令部内防空壕は俄かに騒しくなり、

「総ての日本人は、全員直ちに後方へ転進せよ。」(日本軍は退却という言葉を使わない)

と命令を出し、いつの間にかいなくなっていた。

 止むなく空襲の合間を見て、我が通信隊は所長以下全員が糧抹を携帯し、出来るだけ多く通信機材を持ち、後方羅南方面の山岳地へ移動と決めて防空壕を出た。

 この防空壕を出た途端、七十才位の上品な老婆に出合った。目に一杯涙を浮べ、軍服の裾を握って

「兵隊さん。私は脚が悪いので、これ以上歩くことが出来ません。助けると思って殺して下さい。どうかどうか頼みます。」

と必死の形相。軍服が千切れる程の力で掴まれて、一瞬茫然となった。

「おばあさん。後で必ず迎えに来るから。この手を離して下さい。」

と云っても仲々離してくれない。何度も同じように繰り返し説得して、やっと離してもらったが、俯してオイオイ泣かれ、断腸の思いで走り、部隊の後を追った。

 羅津市内は弱肉強食の無法地帯と化し、満洲人・朝鮮人達は邦人住宅に侵入し、食糧品・衣類・家具類・廚房具、果ては畳まで、手当り次第掠奪を欲しいままにし、止めようものなら殴る蹴るの半殺しの暴行を受けたとか。黒煙は天に冲し、火の海と化した市街は阿鼻狂乱、邦人は逃げ惑い、現地人は強盗に早替り、道路は避難民の長蛇の列、風呂敷包みを首から吊し、幼児を背負い、子どもの手を引いて行く婦人。 素足の痛さに、

「痛いよう。痛いよう。」

と泣き叫ぶ子ども。若い婦人は大きな袋を手に提げ、老父母は跛を引き引き、痛々しい限りであった。雑踏の中で、親子離れ離れになって、

「お母ちゃーん。お母ちゃーん。」

と泣き叫ぶ子。泣き疲れて、涙も枯れ果てたか手を握り合った二人の子どもの姿。冷たくなった死んだ幼児を背負い、

「もう少しだから、我慢してね。」

「賢いね。頑張るんだよ。」

と、独り言を言いながら、大きな包みを提げて行く婦人。体力の限界を知って座り込んでしまった老人。

 こうした沢山の人々が潅木の材に入り、万一の場合に日本婦人の誇りを保つ為にと、日本人会を通じ支給されていた青酸加里を服用し、苦しみに堪え切れず喚く者、持っていた手榴弾で自爆死する者、もうこの世とは思えない、むごたらしい世界だった。

 上空では絶えず戦闘機がジグザグ旋回、獲物を狙う鷹のように、急降下でキーンと甲高い音がすると、機関砲の一斉射撃で、思わず溝や木の下へ飛び込む。目前に土煙りが、ミシンを縫うように続き、堅い道路もスコップで掘った位の穴が出来る。

 こんな繰返しで山へ山へと進む列。老人・婦人・子ども達はだんだんと遅れて来る。 夜に入って山中で野宿していると、子ども連れの若い婦人が

「兵隊さん。助けて下さい。」

と両手を合わして涙を流していた。

「いっしょに行きましょう。」

他に言う言葉とてない。

「食べる物は何もないんです。何とかお願いします。」

と涙ながらに訴えられ、何人かの人々に少しづつ分けてあげた。又、先の老人のように

「助けると思って殺して下さい。」

と訴えられたが、どうして殺せよう、じっと我慢して聞き流した。

 あきらめて青酸加里を飲んで、胸を掻きむしり、もだえつつ死んで行った婦人も何人かいた。夜明け近く、疲れ切った子どもの手を引き、杖を頼りにヒョロヒョロと通り過ぎた老人もいた。

◆ 羅南到着

 細い山道を登ったり降りたり、掻き分けるようにして歩いたり。一睡も出来なかった夜もあったりで、三日だか四日だか、或は五日だか定かでないが、どうにか羅南練兵場に到着したが、ここも例に洩れず、艦砲射撃、爆撃、市街の方向は黒煙が立ち、危険この上もない。止むを得ず近くの山中に入って、欲も得もなくごろ寝で仮眠をとった。

 どの位眠ったのか、 「ガヤガヤ」と騒ぐ声に覚めて見ると、近くの台地に、いつの間にか携帯テントの幕舎が十余り、靄の中に霞んで見え、着剣した歩哨が立って居り、動哨もしていた。これは珍しい事でなく、作戦移動では、部隊長・将校等は殆んど幕舎の中で寝るのが普通で、他の下士官・兵は附近の適当な場所を各人が選び天を仰いでゴロ寝する。転んだが最後、昼の疲れで直ぐ死んだように寝入ってしまうのだ。勿論不寝番は交替して徹夜で佇(タ)つつのである。

 眠い眼をこすっていたら、何と若い女性が幕舎から出て林の中に消えた。暫くすると林から出て幕舎に飛び込むように入って行った。不思議に思っていたら、所謂現地妻なる女性と後で聞いた。呆れて物も言えない。全部とは思えないが、斯くの如き不心得な将校がいたのも事実である。人の話には聞いていたが、自分の眼で見て、話を聞き乍ら思わず拳を握ったことだった。

 吾々兵は、事の如何を問わず召集入隊。親兄弟と水盃。 郷土の為、国家の為と激励されても、現地では意に反し、部隊長以下将校下士官の身の回りの世話を「命令」の美名の下で牛馬のように酷使される。戦火足元に及んでいる今日、旧態依然かゝる現地妻同伴の将校がいるとは、聖戦も地に落ちたもの。

 銃後の国民は、こんな事は露知らず「一億一心、討ちてし止まん」と、欠乏に耐え、「勝つまでは」と頑張っている国民が、之を知ったら何と言うだろうと絶句したものだった。

 混乱の中を羅南市街に入ったが、死の街と化した中を、目を充血さした朝鮮人達は、邦人住宅街から目星い物品を、 大八車やリヤカーに積込み、右往左往していた。

◆ 最後の軍通信所開設

 通信所長中尉以下全員協議するも、中隊本部との連絡がとれない以上結論も出ず。最後に所長は、

「俺は中隊本部との連絡の為、直ちに出発する。依って潮崎軍曹は所長となり、任務の続行を頼む。」

と、命令とも依頼とも解し兼ねるような命令を出し、お互い無事を祈り、堅い握手で決別した。私以下十四名残った。暫くして、中島伍長(天理市在住)が引き返えして来て、小さい声で

「潮崎軍曹。もう敗戦が見えてるから、十五名全員、機材を放棄して南へ行こう。」

と、繰返し言うので、全員に計ったが反対とのことなので、中島伍長は、

「誠に残念だ。」

と、一言残して去って行った。ちょうどそこへ、羅南師管区の参謀中佐が通りかかり

「君達はどこの兵隊か。」

と聞かれ

「羅津要塞司令部の軍通信で、今から山中に入って、京城・東京と連絡を取ります。」

と答えると、

「やー丁度良かった。師団通信は京城も連絡が取れないので困ってた所だ。俺は全責任を持つから、司令部軍通信部として来てくれ。頼む。」

と言われ、参謀と同行司令部付きとなり、直ちに京城・東京との無電連絡に成功し、電報の送受に入った。時に二十年八月十三日頃と思うが定かではない。

 翌日昼食前とて煩雑な無電の傍受・送信、事務の整理に追われている時、突然の空襲で爆撃、地響き、猛烈な土煙、アッと言う間に元の静けさに返ったが、外が急に騒々しくなったので飛出すと、

「兵隊がやられた。」

との事。私が器材の点検に追われている時、昼食運搬に出て行った兵だ。三名即死、三名は重傷と連絡を受けて、現場に走った。

 土と泥にまみれて顔が判別出来ぬ。一名は内臓が飛出し、一名は両脚が吹飛び、 一名は手首と頭部半分はなく、目も当てられない。思わず

「南無阿弥陀仏」

と掌を合わした。早やどこからともなく蝿が来て群っていた。軍医と衛生兵が遺体を運んで行った。後から又々合掌して見送った。

 巨木は中途から折れ、径二米位の穴があちこちにあった。通信所員は全員無事だったので、「よかった。よかった」と喜び合った。

 間もなく「ライ電報」が飛び込んで来た。「ライ電報」とは、平素は殆んどなく、天皇から方面軍司令官に出す重要電報で、又は方面軍司令官から天皇宛の電報。これを送受するだけで金紫勲章が貰えたもので、軍人として最高峰位ものだ。

師団参謀が来て、

「ご苦労。ご苦労」

と労をねぎらい、

「今のライ電報は、天皇陛下宛に、ソ連大機動部隊、凡そ航空母艦、戦戦艦、巡洋艦、駆逐艦、輸送船等約五十隻は、羅南沖を南下中との事で、他言するなよ。」

と、念を押して去って行った。

◆ 敵陣斬込み決死隊

 我々の位置は、羅南近郊の通称二〇三高地の山中で、俄に緊張の空気が張り出し、斬込み隊の編成がされ出した。

 中尉級以下将校下士官を長とする十五・六乃至二十名単位で、完全武装をして部隊長・関係者・知人等と水盃をし、堅い握手を交して出発下山して行った。十隊位あったろうか。

 翌未明、心配顔で待つ部隊長以下将兵の前に、軍刀を杖に、全身血達磨で帰還して、部隊長の前で喘ぎ喘ぎ戦果を報告すると、バッタリ倒れてしまう者ばかり。全滅した決死隊もあったようだし、途中落伍して自害した者・出血多量で死んだ者もいたようだ。帰還するも先の如く、倒れてこと切れる者、血達磨で虫の息の者等悲壮極りなし。

 最初の内は可成りの戦果があったようだが、三回四回と回を重ねる内、ソ聯軍も警戒厳重となり、電灯・サーチライトを昼の如く明るく照し、その上最前線には重戦車の砲列をしき、日本特攻隊を待ち伏せするようになり、飛んで灯に入る夏の虫とか、戦果は皆無に等しく、その上殆んど全滅するようになり、八月十六日頃以降は中止となった。

◆ 日本軍敗戦投降

十五日正午から無線放送で

「八月十五日正午を以ってポッダム宣言を受託した、依って将兵は武器弾薬を捨て、連合軍に投降せよ。」

と、繰返し放送するので、司令部に報告するも、参謀は

「敵の謀略に乗るな。」

と怒った様な顔で、てんで、受付けてくれないのみか、

「極秘だから、絶対他言するな。」

と釘を刺す始末。

 かくて不安の中に八月十七日となり、日本空軍零戦一機が超低空で飛来し、二〇三高地近くに通信筒を落して南方へ去った。司令部で最高会議を開き、始めて敗戦を確認したようだ。翌十八日各部隊に命令を伝達す。

「直ちに、白旗を揚げてソ聯軍に投降せよ」と。

 司令部全員も集合、白布が無いので、白の襦袢で、袖を木の枝にくくりつけて道路まで出た。谷間を縫う様にゾロゾロと何処に居たのか長蛇の列、既に街道は何とソ聯軍の山のような重戦車群が、電柱位の太い戦車砲を左右に回わして威嚇して居り、赤ら顔のソ兵は、戦車の上で横に、ガムをむしゃむしゃ喰いながら、何やら喚いたり、笑ったりしていた。この時始めてソ聯兵を見た。ガムを噛みながら

「ダバイ。ダバイ。」

と、何やらさっぱり判らないまま練兵場に追い立てられ、ゾロゾロと長蛇の列で集合させられた。

◆ 哀愁の捕虜と死の行軍

「驕れる者は久しからず」 と、古来からの銘言通り、明治以来伝統を誇った日本軍も驕れる軍となり、幸か不幸か第二次大戦に迄巻き込まれてしまって、白旗を掲げる結果となったのである。

 前代未聞日本軍最後の状況に出会ひ、北支派遣軍関東軍・朝鮮軍・南方軍もそうだと聞いたが、現地人に対する態度も、「命令」の美名を笠に、憲兵は言うに及ばず、警察官・悪徳地方人まで、横暴を極めたらしい。各所で、終戦を契機に「江戸の仇は長崎で」とばかり、血祭りに揚げられたと。羅南でも、ソ聯軍人・現地人(首や腕に赤い布を巻いていた)は、邦人住宅・倉庫等に鉄棒・竹槍等を振りかざして乱入、止めようものなら打ち殺し、略奪を欲しいままにしたとか。

 無統制の現場は、強い者が勝ち。特にソ兵は、日本婦人と見ると老若を問わず拉致し、暴行し、人前でも平気で強姦、狂態は目を覆うばかりだったと聞く。

 練兵場では、天幕に大きく包んだ糧妹を背負い、汗と油で色の変った軍服、頭・手足へ血と埃で黒くなった包帯を巻きつけた者が多くいた。

 それでも将校は、特権階級よろしく、当番兵を従え、糧抹も相当持たしていた。日本軍の恥部を晒け出したものだ。

 時間が経つに従い、山中に潜んだ兵は、続々とソ聯軍に捕まり、その数を増して行った。二十日頃には、さしもの広い練兵場も捕虜で埋めつくした。

 後で聞いたことだが、捕虜になるのを嫌って山中に入った者は、山嶺伝いに南へ南へ、昼は潜んで睡眠をとり、薄暮となると歩き出し、途中で自警団(朝鮮人)に発見され、ソ聯軍に引渡された。若し抵抗すれば、全員射殺されたとか。

 練兵場では、ソ聯兵が厳重な警戒をして居り、「若し、無断で現場を離れると射殺する」と、通訳を通じて説明があった。「鳴呼、これからどうなることやら」不安が一層積るばかり。

暫くして、

「装具を全部持って並べ。」

と連絡があり、端の方からゾロゾロと立ち去って行く。立っているのも億却なので、皆坐り込んでしまった。段々と我々のグループに近付いて来て、歩哨が銃を振り上げて

「ビストラ。ビストラ。ダバイ。」

と、連呼するので、 止むなく立って歩き出した。

 つい先日迄、爆撃・機関砲射撃・特攻隊・斬込み等々、戦争の悪夢から解放され、「死の恐怖から、ヤット抜け出した」と安堵すると同時に、「良くぞ今日迄生きて来た」と、不思議な気持ちが交錯する。「これからの行動は、ただソ聯軍の指示に従えば身の安全」と、信頼を寄せていたのは、私一人でなく、殆んどの同胞は思っていただろう。

ところが、この行進は何の為に何処へ行くのやらさっぱり解らず、ソ聯兵の監視とは名ばかりで、沿道には想像もつかない大群集が、旧日本軍の三八式歩兵銃・竹槍・日本刀・棍棒等を持ち、両側に並び、

「日本人の馬鹿野郎。」

「阿呆。」

「この野郎。」

「くたばってしまえ。」

と、あらん限りの罵倒と嘲笑いを浴びながら黙々と歩く。

その中にひどい事が起き出した。我々の列の中から、横に引張り出し、ガヤガヤ、ワイワイ騒いでいて、直ぐ静かになってしまう。最初何の事かわからなかったが、あちこちで、こんな事がどんどん行われ、警戒兵も見て見ぬ振りをしている。

「助けてくれ。」

「人違いだ。」

と、悲痛な叫び声がし、

「アッ。」「ウーム。」

と、断末魔の声がして静かになる。助けに行くことも出来ず、耳を覆って下を向いて歩くのみ。心の中で歯ぎしりしつつ。

 過去に、朝鮮人に偉そうにしていた憲兵、警官、悪徳商人等、見付かれば最後である。気の毒なのは、これ等の人々に似ていて惨殺された人である。死んでも浮かばれない。

 昼夜の別なく、両側には相変らずの人の列で、目を見張り、ジロジロと睨み、それらしい者は居ないか・・・。薄氷を踏む思いだった。

今、思い出しても身の毛が弥立つ。

あんな情ない思いをした事がない。明るい太陽が出れば、朝鮮人の顔が鬼のように見えた。子どもや老人、男も女も相変らずの暴言罵倒、一日はなぜこんなに長いのだろうと、不思議に思ったことだった。

 一食も与えられず、一滴の水も与えられず、一睡もさせられず、只歩き続けていた。何十日も歩いたように思い、二・三日かなとも思い、確かな計算は今だに出来ない。全神経が緊張している時は、別に苦痛も疲労も感じないものだ。夜に入って緊張感がなくなると、睡魔におそわれ、歩きながら眠っている。眠りながら歩いている。ヒョロヒョロと列外に出ては、引戻され、戦友につつかれたり、つついたり、どなられたりどなったりで、何処へ行くのか、どの位歩くのかもわからない不安とで、もう欲も得もなくなり、「もう死んでもよい横になってぐっすり眠りたい」と思ったり「馬鹿!死んだら終りではないか」と、自問自答しつつ、只歩くのみ。

 こんな時には、不思議と親・弟妹・妻のことが思い出されるものだ。又それがどの位力になるものか、「頑張れよ。帰って来いよ」と力付けてくれる。「アア帰るよ。頑張るよ。皆と一緒に、きっと帰る」と歯を喰いしばって歩いたものだ。

 誰言うとなく、「古茂山まで行く」と云う。古茂山ってどの辺か、まだ遠いのか、果たして無事に到着出来るか、又不安。誰も眼が真っ赤に充血している。私もおそらく真っ赤だろう。開けているのか、閉じているのか、夢なのか、現実なのか、朦朧として定かでない。前にも書いたが、今日は何日なのか、さっぱり解らない。

「オーイ。古茂山に着いたぞ。」

の声に、我に返った。勇気百倍。誰の顔も、生気が出てるように思われた。

 小さな川の畔で、屋根と柱だけの廃屋が二十戸ばかり並んで居り、先着の同胞は、有刺鉄線を張り終えた所だった。

「ダバイ、ダバイ。ビイストラ。」

と、怒鳴られつつ古茂山収容所に入れられた。完く、何十日も経って歩いたように思ったが、よくよく考えてみたら、数日位だったようにも思う。確かにそうだとは言い切れないが。旧浅野セメント住宅を川に面して遠巻きに鉄条網を二重に張り巡らし要所には望楼を造り自動銃を持ったソ聯兵は日夜警戒し、やたらに自動銃を吹放し鉄条網に近寄るなとの意、檻に入った猿の様。

◆ 古茂山収容所

 古茂山とは、羅南の西北約100粁の所で、輪城川に添って、清津の川上に当るとか。 浅野セメント工場があり、小さな駅のある一僻村あった。収容所と言っても、工場の倉庫や住宅を使ったもので、入り切れないので、川原に穴を掘り、木や板筵をかむせたり、山の朶を取って来て覆ったりしていた。私達も例に洩れず床下の土へ天幕を敷き毛布を広げて寝た。床上も押入も満員、それでも深夜になると寒気が肌を刺す様に感じた。ソ聯軍爆撃以来では最高の寝床であった。

 一口に100粁といえ、背嚢、毛布二枚、天幕、軍服着替一切、飯盒水筒、雑嚢、若干の食糧の全財産、目方にして、重い物で二〇瓩、軽くても十二、三瓩の物を背負い、空腹を抱えてヒョロヒョロと歩くのだ。汗と埃で襟と背中は浅黒く汚れ、汚れたタオルを首に吊して流れる汗を拭きながらの姿、嫌な臭気がプンプンする。何のことはない乞食の行列だった。跛を引く者、杖を頼りにトボトボ歩く者等、朝鮮まで来て、最低の哀れな姿を朝鮮人の前に晒し、蔑視され、老人子どもに至るまで嘲笑と罵倒を浴びせてくる。じっと我慢しなければならない情なさ、「勝てば官軍、負ければ賊軍」とは、良く云ったものだ。

 落着くと皆川へ飛び込んで体を洗い、洗濯し、身の廻りを整理して、なげなしの米でお粥を炊いた。お粥がこんなに美味しいと思ったことがなかった。

 二重に張り回らした鉄条網、要所要所に高い監視塔を設け、「夜間は、便所へ行く以外は外に出るな。 みだりに出ると射殺する」と、通訳を通じて言い渡される。

 消灯時間が来て電灯を消すと、自動小銃を持ったソ聯兵が入って来て、「ダバイ、ダバイ」と、時計、万年筆、シャープペン、写真機等、貴重品の強奪、出す物がないと言えば、やたらと小銃を吹放す。翌日、ソ聯将校に抗議しても、何の反応もない。毎晩のようにやられた。抗議の反応が無い筈で、将校の両手に、強奪した時計が巻かれ、写真機が提げられていた。勿論、兵隊もいくつか巻いていたのがいた。時計のゼンマイを捲じ切って、使い物にならないのに、 得々とした顔がナンセンスだった。生活程度の低さが窺われた。

◆ 逃亡兵の銃殺

 或る日、全員集合して山際まで連れて行かれた。目隠しされた日本兵が六名立たされていた。ソ聯将校から

「この兵隊たちは逃亡しかけたので、今後のみせしめの為、只今から処刑する。よく見ておけ。」

とのことだった。少し離れて、ソ聯兵六名が銃を持って立っていた。命令が出たと思ったら一斉射撃で、哀れその場で銃殺された。何か悲鳴をあげたようだったが、銃声に掻き消された。 予め前に掘られていた穴の中に入れられるのを見て帰ったが、言い知れぬ淋しさがこみ上げて来て、自然と涙が出た。 望郷の念に駆られ、北鮮から山岳伝いに南鮮迄も逃げようとした気持ちが良く判る。

 或る夕方、空が赤く染まり、鳥も山の寝ぐらに帰った頃、附近の子ども達が小さな輪を造り、

「夕焼け小焼で日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る お手々 繋いで皆帰えろ 烏といっしょに帰りましょう」

と、無邪気に唄っているのを聞いて、誰ともなく鉄条網の側に集っていた。望郷の念か、子どもの頃への郷愁か、暫らくは咳一つする者もなく子ども達を見つめていた。希望も夢もない我々に、つかの間の思わぬプレゼント。久振りに和やかな気分に浸れた。

◆ 糧抹配給

 最初の十日位は、何の配給もなく、後生大事に持っていた米を、重湯にして喰い延ばした。持っていない者は哀れで、米の飯やお粥・重湯を喰っている側で、水ばかり飲んで寝て過していた。背に腹は替えられず、深夜盗みに入って発見され、半殺しに合う者さえ出た。大事に隠し持ってた時計を、黒パンと交換する者もあった。私も、シャープペン・時計を黒パンと交換して、生命を支えていた。

 ソ聯軍の事とて、いつ配給があるのかさっぱり判らない。毎日毎日交渉するが、敗者の発言は力がない。一方通行で、やっと十日余りして待望の配給があった。が、何と大豆ばかりであった。

 岩塩で味付けをして、グツグツ炊いて食べていたが、三日目からは、見ただけで食欲がなくなる。仕方なく煎って、ポリポリ食べると、無性に喉が渇き水を飲む、例によって下痢が激しくなって止まらない。体力の弱まりが目に見えて来た。フラフラしながら便所通いばかり。私だけでなく殆ど全員だった。

 白米の交渉をしても言を左右にして、仲々配給されない。下痢止めに炭を食べる者が出て、私も口を真黒くして食べたが、少し良くなったかなと思う位で埓があかぬ。こんな状態がいつまで続くのかと思うと、お先真っ暗だ。

 フラフラの状態の中でも、毎日100名位使役に狩り出される。セメント工場の機械類・備品等一切を解体して、貨車に積み込む。ボルト一本も残さない。脚の折れた机まで積み込まれた。

◆ 虱の発生

 八月に入ると、早や朝夕の寒気が身に泌みるようになる。一足飛びにシベリヤの冬将軍がやって来そうな気がした。一ヶ月に二度程のドラム罐風呂の入浴で、洗濯も思うように出来なくて困った。

 従って名物の虱が、 全収容所に蔓延、襦袢の縫目には、ずらりと白い卵が続き、翌日には、小さいのがゴソゴソ這い出し、翌々日には大きくなったのは卵を産み出す。下等動物の繁殖力に驚く。電気計算機でないと計算出来ないようだ。虱退治が日課はおろか夜間消灯まで行われ、

「本日の戦果莫大なり、大型母艦二十隻、巡洋艦五十七隻、駆逐艦百三十六隻、 以上報告終り。」

「大本営発表、北方に於ける戦果、巡洋艦二百隻。」

等、沈む心を冗談で慰め合ったものだ。ソ聯兵は、何かあるとすぐ

「東京ダモイだー(東京へ帰る)。」

と、良く言うが、いつも欺され通しなので、誰も信用しなくなってしまったが、聞く毎に、淡いながらも「もしや」との希望を持つが、例によって皆パア。よく考えて見れば、ソ聯将校や兵に判る筈がない。スパイの本家本元で、秘密の徹底したお国柄だけに、移動の度毎、或る地点まで行くと、必ず指令所に連絡をとり、「〇〇へ行け」と、命令をもらって次へ移動、終着までに四回も五回も連絡を採り、時には逆戻りする事さえあった。

◆ 満洲延吉収容所へ移動

 昭和二十年十一月頃

「東京ダモイだから、全員装具を持って集合せよ。」

と命令が出た。今度は本物だ。喜び勇んで客車ならぬ有蓋貨車に乗り込む。坐ったままで、横になる事も出来ない。貨車なので窓が上方に一つある切り、仲々動き出さない貨車の中で不安が積って来る。小さい窓から山の頂上と夕方の空が見えるだけ、段々と暮れて来る空に、益々不安になる。

「ガタン。」

動き出した。

「おーい!山を見てみろ。どっち向きや。」

と誰かが叫んだ。

「アッ、北向きだ。」

「やっぱり。もうだめだ。東京どころか、モスコーだ。」

「いや、そうとも限らん羅津に行く手もあるぞ。」

「いや、シベリヤ行きだ。満州から北へ北へ連れて行かれる。」

「もう断目だ会寧まで行ったら判る。それまで、もう考えるな。」

とて、皆な黙ってしまった。小窓の外は真暗くなってしまった。心細い事たらなかった。貨車の壁にもたれて眠る者、中の方は背中同志で支え合って眠る者、独りで膝を抱えて眠る者、 いつの間やら囁き一つしなくなった。

「ガタン。」

との音に目を覚した。何処の駅かさっぱり判らない。外を見る事も出来ない。「早く落着くとこへ行ってくれ。はっきりしてくれ」とは、私独りでなく、皆そう考えた事だろう。何回か止まり止まりして、便所へ行くにも炊事をするにも警戒兵付きで。それでも外に出られるのが嬉しかった。新しい空気を胸一杯吸い込めたから。「会寧」をいつ過ぎたのか豆満江をいつ渡ったのか知らない。

「全員装具を持って下車せよ。」

の命令で、下車したのが延吉(戦後間島と改称された)とのこと、重い足を引き引き収容所に着いた。驚いた事に、すでに二万人の日本兵が収容されているとの事だった。北鮮古茂山よりは更に寒く、気温は零下20〜30度で、寒いと言うより、痛いように感じた。

 今日まで運を天に任せて耐えて来たのだから、「祖国の土を踏むまでは」を合言葉に、お互い頑張ろうと誓い合う。収容所の内も外も、地表一米余りが凍結し、その上に筵、アンペラ、毛布を敷き、雑嚢を枕にして寝床が出来上る。「やれやれ」と思ったが、人間最低まで落ちれば生きられるものと、吾ながら感心する。

 私は、第二分隊長として、約20名の兵隊を預った。終戦後として階級はなくなり、長い間、絶対命令で抑圧されていたものが一挙に爆発したようで、何でも云い放題、将校も下士官もあったもんでない。温和しくしていると馬鹿にされ、少し命令調に出れば反発を受け、何をされるか判らない。だから責任者は、何事に依らず先づ先頭に立って、卒先しないと部下は従いて来ない。或る班長は、生意気だと、部下に袋叩きに合ったと聞いた。私の部下は、関東生れ(国定忠治の赤城山附近で育った者)で、終戦後の生残り旧満州開拓団で殊の外気性が荒く、中に大阪府下の河内出身者で入墨をした者がありで、ほとほと手を焼いたが、良く話し合ってトラブルもなく、やがては逆に、命を張って私を護ってくれるようになった。河内出身で中村健三郎さんと言う人で、私より七つ位年長者。この人には随分お世話になったので、一度お訪ねしてと思うが、広い河内のこととて今だにお訪ねする事も出来ないでいる。

 お陰で私の班は良く統率がとれ、何でも素直に云う事を聞いてくれて、その点私は幸福であった。

◆ 高黍の配給

 ご多聞に洩れず延吉でも食糧難が続き、一ヶ月近く高黍(コウリヤン)だけの配給が続いた。高黍(コウリヤン)は本来馬糧食で、日本兵も完全に馬扱いになったと苦笑させられた。

 高黍(コウリヤン)は、炊いても炊いてもバラバラしている。何もないので無理して食べるが、殆んど胃腸を悪くし、便泌がはじまる。もう今日で一週間位い便通が無く食塩水を飲むとよいと言うので飲んでみるが効果なし。腹が張ってブウブウとガスが出るばかり。気持ちが悪いので便所へ行っても出ない。便所はいつも鈴なりの盛況だった。便所の構造は、二米余りの細長い穴を掘り、白樺の木を二本渡して出来上り。回りを筵で目隠ししただけである。

 二本の木に跨って用を済すが、誰でも同じ場所でする。零下30度と言う中では、凍結して竹の子のように突出て来る。使役が出て凍った竹の子を砕くのであるが、その砕粉が知らぬ間に、防寒服や顔に付着する。幕舎に帰ると、暖いので解けてプンプンと臭くなる。これには、一番困った。便泌には小枝で突いて落せると言うのでやってみるが、結局爪で引掻いて取除くことになる。暫くはこの臭味に難儀した。

 やっと米の配給を受けた。粥にして飯盒の蓋(フタ)に軽く一杯の配給だったが嬉しかった。空腹は満たない。夜になると、俺らが故郷の名物の話が出たり、ぼた餅の話、ぜんざいの話と甘い美味しい物の話に花を咲かせ、せめて精神面でも腹一杯の話をし合い、毎夜これが唯一の楽しみであった。

◆ 発疹チフス発生

 或る日の会報(これは、収容所運営上本部を設け、ソ聯軍より、命令・要望・指示を受け、各収容所より一名二名命令受領を複誦筆記して伝えるもの)が出て、発疹チフスが流行しているから、各自充分注意するようにとの事であった。伝染病の中に発疹チフスというのがあったなあぐらいの軽い気持ちで、聞き流していた。

 軍医や衛生兵があるが、薬品や注射類はない。止むなく放ったらかしの状態である。只風邪引かぬように少しの暖をとるしかなかったのだ。暖を保つために、毎日日課のように市街反対側の旧兵舎・倉庫等を片端から素手で壊し、柱や板を出来る限り多く担ぎ、収容所内のドラム罐に煙突を立てたストーブ?で、一日中暖をとったものだ。

 暫くして我が中隊にも蔓延して来た。夜寝る前は、あんなに楽しく元気で、俺が村の名物、食べ物の話をして

「無事に内地へ帰ったら、是非共遊びに来て下さい。」

と、いつの間か眠ってしまった戦友も、翌朝は冷たくなっていた。死後かなりの時間がたっているようだった。そう云えば昨日迄の戦友は熱っぽく、二三日来食欲もなかったようだった。精一杯頑張って生きて来たのに、こんなシベリヤの涯で死のうとは、さぞ残念だっただろう。それでも死顔は、安らかな仏顔を作っていた。思わず合掌して、「南無阿弥陀仏」と、冥福を祈った。魂は、すでに故郷の親兄弟の所へ会いに行ったのだろう。

 点呼時には、事故一名死亡と悲しい報告をする。 栄養失調で衰弱しているので伝染病の流行には一番弱い。

◆ 死体の山

 この頃になると、各班で毎日一、二名の犠牲が出る。食事前に遺骸を担荷に乗せて、死体置場へ運ぶのが日課の様になる。

 収容所隅の鉄条網の傍で、初めは三、四〇体だったが、日ならずして死体の小山が出来た。死体置場は三ヶ所あったようだった。零下三〇度では、冷凍室に入れたようなものである。段々と死体置場が広がり、宿舎の近くまで来てしまった。

 命令が出て、死体を上へ上へと登って置くようになり、山はどんどん高くなって、その上に白雪を被り、一種異様な雰囲気で、特に夜間十二時近くなると妖気が漂い、身の引締まる思いがして、便所へ行くにも二、三名でないと気持ちが悪くなる。

 発疹チフスとは、四〇度余りの高熱が続き、食欲は一切無く、喉が喝き、矢鱈に水を飲む。加えて栄養失調で体力の限界が来ているので、早くて三、四日、遅くても十日位で死亡する恐しい伝染病であり。殆ど脳膜炎を患い、眠っていてもよく浮言を云っていた。虱が媒介すると云うので、暇さへあれば虱を取り、爪を真赤にして潰すが、減ることはなく増えるばかりである。

 冷たくなった遺骸から、一夜にして三、四名を越して温い健康な者へ移動するとの事で、絶えず温い健康な体を求めて住み付く始末には手に負えないしろものだ。

 割に早く死ぬのはサラリーマン等インテリ階級で、残るのは一般労働者・漁業者・農業者である。環境は極度に悪いため、捕虜と虱は絶対縁が切れない。

 入浴はドラム罐風呂で、二、三週間に一度で、その都度、衣服をグツグツと炊くが、毛布の毛の中、雑嚢・巻脚絆等に迄喰い込み、根絶は不可能である。

 洗濯物は室内へ干すが、二〇分位でトタンのようにピンと凍ってしまう。太陽に照らすと、いつとなく乾くが、乾くと虱がゴソゴソ這い出して来る。零下三〇度はおろか、四〇度でも死なないと言う、生命力の強さに驚く。

◆ 私も遂に発疹チフスに

 私も遂に発疹チフスに罹り、四十度以上の高熱が出て、早速軍医に診てもらったが

「気い付けよ。」

と言っただけで帰ってしまった。

 食欲は全々なく、矢鱈に喉が喝き、水筒の水を飲む。水筒も枕元に置くと、コチコチに凍ってしまうので、氷枕に早替り。解けた水を飲んで、又氷枕にする。

 除々にではあるが体力の衰えが自分にも判る。高熱のため昼夜の区別なく目を閉じていて、体は空中に浮き、泳ぐような実に気持ちの良い夢を見るようになった。

 又、手足が熱で燃えるような感じで、毛布から手足を出して

「防寒靴下脱いでくれ。」

と戦友に言ふが全々取合ってくれないばかりか、毛布の中へ入れられる。実は、手や足は氷のように冷たかったのだそうだ。

「このまま出して置くと凍傷にかかるから、駄目だ。」

と言われる。

「こんなに燃えてるのわからんのか。」

と云うと、

「違う。班長の錯覚だ。氷のように冷たいんだよ。」

と、冷たい返事。止むなく辛抱しているが、ウツラウツラする中で、又もたまらなくなって、手足を出す。 戦友は怒りながら、何回となく毛布を掛けてくれたのだそうだ。

 一週間程して意識朦朧となり、時々夢の中で、家族の顔がチラチラ見えるようになり、戦友達は傍で

「班長しっかりせえよ。死ぬなよ。」

と、耳元で何回となく激励してくれる。

「大丈夫。心配するな。」

と言うが、いつの間にか意識朦朧となり

「早く、軍医を呼んで来い。」

と戦友の声が聞えた。間もなく軍医が来てくれたが、薬品類のない中で、どうすることも出来ないのだ。肉体はすでに仮死状態になっていたようだけど、魂だけは未だ生きていた。証拠に、部下と軍医の話声が小さいけどはっきりと聞こえていた。

 脈拍を見ている。険を引っくり返された。頬ぺたを軽く叩かれた。 何の反応もなかったらしい。

「潮崎軍曹はもう駄目だ。 ご臨床故あきらめろ。」

との声が聞こえ帰ってしまった。

「何言うのか。俺はまだ生きてるぞ」

と、全身で訴えようとするが、力が抜けてしまってどうにもならない。

◆ 俗に云う三途か死線をさ迷う

 以来は夢の世界、幻の世界、不思議な世界をさ迷った。このことは信じられる人は信じてもらえばいい。信じられない人はそれでよろしい。

 病気で寝る前に、一番親しくし、何でも打明け合っていた、宮城県出身?の渡辺君が亡くなった。淑父が牧場を経営してると聞いていたが、この渡辺君と生前に、

「班長。私が先に死んだら、故郷の家族に、前後の詳しい話をして下さいよ。若し私が残れば、和歌山県に行って、詳細に話しますから。」

と、約束していた。

 この死んだ筈の渡辺君が、百花爛慢の実に美しい花園で、澄み切った小川の向岸に横になり、ニッコリ笑いながら手招きしているではないか。

「班長。何してるんだ。早く来なさいよ。」

と、手招きし呼ばれた。行きたくて川の傍まで行くが、どうした事か川を渡れない。美しい大きな蝶が、羽衣をつけているように、花から花へと、空中散歩しているようだった。幻想の世界。今でもあの綺麗な川が目に浮かんでくる。俗に云う”三途の川”とは、あの川の事だろう。

 何度も何度も渡ろうとしてたら、誰云うとなく

「団子が足りんからアカン。」(断目の意味)

と聞えて来る。残念だ残念だと思いつつ川の傍まで行くが

「団子が足りないからアカン。」

と又聞え、何とか行けないものかと、思案に暮れていた。どの位時間が経ったのか不明だが、後ろの方から

「班長!潮崎!」

と小さな声が聞こえて来る。 そして又暫くすると、微かに私の名前を呼ぶ。この美しい所に、いつまでも浸っていたいが、又々呼ぶ声。あまり五月蝿く呼ぶので、思わず

「オーイ」

と言った。その自分の声に、ふと我に返った。おぼろげながら、目前に戦友の顔々が次々と映って来た。

「班長が生き返ったぞ。」

と、誰の声か不明だが、はっきり聞こえた。しかし又々意識が薄れて行く。呼ばれて現実に戻る。こんな繰り返しで、意識も除々に蘇ったらしい。何度も繰り返し、軍医も駆けつけて

「もう大丈夫だ。俺も長く医者しているが、こんな例は、初めてだ。」

と、首をかしげながら言った顔と言葉が、今だにはっきりと、目と耳の奥に焼き付いている。

(注)団子のことは、串本地方は禅宗で、不幸があると、必ず団子を山盛りにして供える風習がある。

 遠い満洲の涯で、誰が言ったのか「団子が足りんからアカン」と、今だに不可解だ。幽明境を異にした極楽とは、ああした綺麗な花園を云うのであろうし、死ぬ事自体を憧れ、映画にあった「新しき天」とか、流行歌に歌われてた「死して楽しい天国へ」とかも、無理からぬ事と思う。

 だから、帰国して以来、親戚に不幸があると、「葬式その他の相談事は、仏の前でしないで別室でするように。」と言っている。「俺は未だ死んでないぞ、何云うか」と、魂は言っている場合もあると考えて…。

 私が生き返ったのは、戦友の諸氏や祖先の人々が、呼び戻してくれたお陰と思って、感謝しています。

 どうしても下がらなかった高熱が、不思議にも虚のように消え失せ、食欲も少しづつ出て来て、フラフラしながらも、便所へも一人で行けるようになり、除々に回復して行った。当時「信じられない奇跡」と、皆口を揃えて言っていた。死者五万人とも言われる恐しい犠牲者のあった中で、只一人生き返った私に

「一度死んだ筈の者が生き返ったのは、潮崎班長!お前一人だ。」

と、軍医も言ってくれた。

 困ったのは、高熱の後遺症として、部下の名前もケロット忘れてしまった事だった。やっと覚えても、翌日はもう忘れている。我ながら情けなく、随分恥ずかしい思いをし、努力して、だんだんと全員の名前を覚える事が出来た。

 体調もぐっと快方に向い、少々の力仕事も出来るようになった或る日、「今夜は演芸大会を催すから、各自は何でも良いから、挙って出るように」と連絡があった。

◆ 吉田正氏との出会い

 喉に自信のある者は次々と出た。流行歌あり、端唄あり、民謡あり、浪曲あり、詩吟あり、物まねありで、何が飛び出すやら解らない。久しぶりに笑いの渦だった。私も調子に乗って、お国自慢の「串本節」を唄い、最後に吉田正氏(当時兵長)が出て、数曲想い出の歌を歌った。さすがプロで、我々とは段違い。会場粛として声なし。これが、日本作曲界の大御所吉田正氏との出合いである。 地方に居ては、傍へも寄れないような人とお付合いが出来たのも、兵隊のお陰、いや捕虜のお陰かな。

 遺体置場は宿舎の近く迄、山のように積まれていたが、発疹チフスもぐっと減少していたので、此の意味は病弱者は悲しいがドンドン死亡したと言い様のない言葉で、重苦しい嫌な空気を吹き飛ばすべく企画されたこの催しはなかなかの好評で、この後、月二回位開催されるようになった。 お互いに慰め合い、お陰で生きているつかの間の喜びを、ひしひしと味うことが出来た。

 開催される毎に、「串本節を唄へ」との声援で、有頂天になって唄ったものだ。

北辺満州の涯で、串本節を唄うとは想像も出来ぬ事だった。

◆ 遺体の山の処理

 シベリヤ嵐、極寒の満洲にも、三月に入ると、昼下りの陽光は、春を持って来る。

 収容所隅の雪を覆っている遺体の山を「早く処理せよ。」

と、ソ聯軍の命令で、毎日3,000名から5,000名位の使役が出て、大型でコの字型の深さ二米余の大きい穴を、次々と堀った。地下一米余も結氷しているので、固い岩を砕くようなもので、木片や草を集めて焼き、氷の解けた頃を見計っては掘り、又草を焼いては堀った。

 何十箇所も堀ると、次の使役で(重車:俗に言う大八車)に五体位の遺体を乗せ、縄で縛って、旧陸軍病院の現場へ四名で運んで行く。途中道路が悪いので、遺体がずれて頭や手足が鉄輪に触れると、頭は削られ、手足は不気味な音を立てて折れる。元の姿に直しては動き出す。絶えず注意はするが、現場に着くと、半分は損傷して居り、思わず掌を合わす。 コの字型の穴へ、遺体を滑べり落とす。150体から190体で一杯となり、次の穴へ入れる。 合掌して心から冥福を祈り「南無阿弥陀仏」と唱えても、こんな葬り方で、本人は勿論遺族の方々に申し訳ないような気がしてならなかった。土盛して、花を供えたくともないので、せめて青草でもと、やっと芽を出した緑の草を盛土の上に移植して合掌する。

「安らかにお眠り下さい」と祈ると、亡き戦友の顔が浮かび、残念だったろうと思い、思わず目頭が熱くなる。

 毎日々々の使役は、身の毛が弥立ち、生地獄とはこの事かと、一ヶ月余りは、暗い日々を送った。

 戦友達の話を総合すると、300ヶ所以上堀ったと言うが定かでない。後で聞いた。 二十一年六月からシベリヤ行きが始まったが、相当数の残留者が居て、我々の処理出来なかった遺体全部、埋葬して入ソした由。

 延吉収容所での暗い抑留生活は、思い出してもゾットする。生死の境を絶えず彷徨していたあのイメージは、終生忘れる事が出来ないだろう。

◆ シベリヤ入り

 六月終り頃だったろうが延吉収容所にサラバして、国境の街ユネイへ貨車で移動、下車して歩く。両側にはソ聯兵が延々と並び

「ビィストラ、ダバイ」(早く歩け)

と、叱咤する。満ソ国境へ、犬に追われる羊群のように、重い脚を引き摺り引き摺り、只無気力に歩く。用便したくて少し隊列を離れると、赤ら顔の兵は、銃を振り上げて追って来たり、空に向かって吹っ放す。六時間余り、黙々と長蛇の列。なだらかな起伏、湿地帯、涯しなく続く濃い緑の草原が一面に影朧が立ち込め、暫し淡い感傷に浸る遥か地平線上に、望楼のような物が見えて来て、近づいて見ると、鉄条網が二段構えに張られ、見渡す限り延々と続いて居り、高い望楼の上に、何本もの赤旗が風になびいていた。これが満ソ国境線との事で、瞬間身が引締った。「鳴呼!これで万事休す。」祖国へ帰れる夢も希望も遠のき、何ともやり切れない心地がした。欺され通しで、とうとう来るとこまで来てしまった。

 多数のソ連兵・将校が待ち受けて居り、久振りの行進で足腰が痛く、やれやれと腰を下ろすと、ソ聯兵が、

「ダバイ、ダバイ。」

と叫び、少し動作が鈍いと銃で殴り、完全な罪人扱いである。

 先着順で各グループに配けられ、吉田正氏とは、以来別離の形となった。吉田氏の新作「異国の丘」「七ッの海」外数曲等を深く心に刻み、嬉しい時、悲しい時、耐えられない時、作業帰りに、祖国の土を踏む迄はと、吉田氏の唄は、どれ程心の糧となり、生命の支えになったか解らない。

◆ いよいよ作業場入り

 私達は米国製大型トラックに乗せられ、何処へともなく出発した。道路は広いがガタガタして悪く、土煙が濛々と立ち上る。山へ山へと入り、地名不詳の山小屋へ到着した。山での伐採作業、道路作業と、その後、山小屋とも馬小屋ともつかぬ小屋を転々と、一ヶ月から二ヶ月余りで移動して作業を続けた。

 その度に地名を聞くが、ソ聯兵は、申し合わせたように、

「ヤー、ニズナイ。」(私は知らない)

の返事。時には附近の農民と手まね物まねで話をする。 唖と話しするような感じだが、大体の意味が解かる。これも申し合わせたように、付近に気を配りつつ小さい声で、

「日本はよい国だ。」

と盛んに貰めていた。裏返えせば、

「ソ聯は悪い国」

と、言うことになる。

 或る日、移動先の山麓にある馬小屋に到着早々、装具を降して炊飯にかかっていると、突然四名の兵は其の場に倒れ、口から泡を吹き出して痙攣を起こしたのに驚いた。「火癲癇ではないか」と言う者も居たが、軍医も居ないところで、只

「オイ、しっかりせ。」

と励ますだけである。静かになったと思ったら、もう事切れていた。

 ソ聯兵の話から、原因は湿地帯に自生する毒草が原因と解った。ホウレン草に良く似た毒草で、牛や馬、羊、豚等は臭覚は鋭く、絶対に食べないそうだ。

◆ チョルマ入り(営倉入り)

 入ソ以来、十五名内外のブルガジール(作業班長)として、強制作業を押付けられて、作業能率(ノルマ)が上らないと、責任者である私が叱られる。

「ホイニヤー(駄目な奴)ヨッエビホノマーチ(最低の罵倒言葉)」と言われ、命から二番目に大事な食糧を半分に減らされる。これが一番応えた。なお悪いと、

「班長ちょっと来い。」

と呼び出され、チョルマ(旧軍隊での営倉、地方での豚箱)に入れられる。急造のチョルマは、郵便ポストの大きなようなもので、白樺の木で作られたものだった。入れると、西部劇に出て来るような、大きな鍵をかける。捕虜になって営倉入りするとは、情けない事だ。軍隊で入った事もないのに!

 夏季は涼しくてやれやれと思うのもつかの間、何処からともなく小さな虫がやって来て、顔・手・首と所かまわず刺され、直ぐ腫れ上る。大低二時間位で帰れと言ってくれるが、五時間も入ってたような感じで、非常に疲れる。

 冬季には30分位入れられ、凍傷一歩手前で、手足が疲れ、顔の感覚もなくなりかけ、意識は朦朧となるまで入れて置かれる。

 チョルマは衛兵所の前に在って、少し風が吹くと零下30度以下となり、冷凍室に入って扇風器を廻しているようなものだ。

 時間的に営倉入りは、夕食後直ぐとなる。解放されて幕舎に帰ると、皆心配して待っててくれる。

「班長! ご苦労さんでした。」

と労ってくれるので、やっと気持ちが収まる。誰か犠牲にならねば解決しないので、自分さえ犠牲になればと諦める。

◆ ソ聯の片鱗

 この当時だけでないだろうが、戦時中の日本と同じで、何でも配給制だった。一般人・農民・兵隊と服装は簡素で、黒パンと牛乳・塩鮭等を食べているのをよく見かけた。

 黒パンは、小麦原麦(燕麦に似てる)をそのまま粉にして焼いたパンで、色が黒いので我々は黒パンと呼んだ。日本人には不向だが、栄養価が非常に高いと聞いた。日本流に言えハッタイ粉に酢を加えて蒸したようなもので、これが一般ソ聯人の常食だった。

 ところが、将校でも佐官以上の家庭では、白パン・肉類・確詰等は豊富にあり、飼犬でも白米飯を油炒めにし、罐詰の肉を与えていたのには、腹が立ったけど、どうしようもない。私も腹が減ってたので犬に食はれてなるものかとソ聯人も居ないので丁度良い機会と、靴音荒く近づきシャイシャイコラコラと嚇すと犬もさるもの逆に歯を剥いてきたので、残念だが諦めた。最も公平な社会と、自負しているのに、格差の激しさに驚いた。それでも一般の人は、不平不満も言わずよく働いていたが、年配の労働者は小さな声で

「日本は良い国だ。お前達は幸せだ。」

と云ったのには、妙に痛々しく感じた。

 大体ソ聯はスパイの本家である。国内でも秘密主義の徹底したお国柄だけに、国外の悪いニュースは、ドンドン知らすが、都合の悪いニュースは、全く知らせない。 指導者も国民も、見猿・聞か猿・云わ猿で米国始め西欧諸国は、天災も多く、社会も混乱して、兇悪犯が相継ぎ、生活水準も最低で、非常に苦しんでいる位にしか思っていない。暇な時にソ聯兵は、真面目な顔をして「日本に電気があるか。」「大きい鉄船があるか。」「電車や汽車があるか。」と子供のような事を聞いたのにも驚いた。教育程度の低いのに驚く事ばかり。右に述べた事もその一つだが、計算に関しては、当時の日本の小学校の六年生位の程度に思われた。我々を並べるのに五列にする。五・十・十五……と、勘定し易いからである。

 或る時、下士官集会所の壁に掛けた大きい世界地図を

「ソ聯は一番大きいだろう。軍隊も武器も世界一だ。」

と云う。これはまあいいとして、私達に、

「日本はどこにあるのか。」

「ここだよ。」

「米国は。」

「ここだ。」

「英国は。」

「ここだ。」

次々フランスは、ドイツは、インドはと聞かれて、一つ一つ差し示すと、将校も下士官も真顔になり、

「お前、大学の先生か。」

と云われ、心の中で吹き出した。

◆ 現那智駅長 森本千秋氏との出合い

 入以来20回以上も転々と移動する。 沿海州附近の山ばかり、ロカシフカ、バラバヤース・シュコート・アルチョム・スタロイレーチカ・オケヤンスク・ピエロイレーチカ等、ウオーロシロフ附近の部落ばかりだ。(これは森本氏から頂いた資料から)

 二十二年五月頃、セジモーイ宿舎で、和歌山県出身者がいると聞いて、作業終了時に会ったのが森本氏だ。

「私は下里生れです。」

「私は串本生れやがい。」

と、初対面から話が弾み、那智の滝・勝浦・潮岬等、次から次へと、話は止まる事を知らなかった。翌日から、私の作業班に偏入、私も兄弟が出来たのも同様、どんな些細な事でも話し合い、以後心の支えとも、片腕ともなってくれた。

 当時は皆ビタミンBが不足して居り、歯茎からは血が出るし、歯がガタガタになるし、少し歩くと足が重く非常に疲れた。だから、作業の往き復りには、必ず野草を採って帰り塩漬にして食べた。私はタンポポの漬物を作って森本君に食べてもらった。

「こんな美味しい漬物は始めてや。」

と喜んでくれた。或る時作業場からナンバ(とうもろこし)を班員がとって来て、塩茹でして皆で分け合って食べた。本当に身に染みる程美味しかったが、これがバレて

「潮崎、ちょっと来い」

となり、例に依って責任者である私が、チョルマに入れられた。

 入ソ以来、生命を保つために警戒兵の目を盗んで、ジャガ芋・ナンバ・大豆等、口に入る物なら何でも、失敬して来た。盗むことの罪悪感が麻痺して、当り前のようになり、抑留生活者で、「私は盗んだことはない。」と言える者は居ないと思う。

 或る日、ソ聯政治将校の要請で、「日本新聞」を読まされた。これは、モスコワで日本人が発行したものとの事だった。

それには

「敗戦日本の赤裸々な姿」

と題して、配給と行列、闇の横行、食糧難の姿等、詳しく手に取るように書いてあり、労働者、農民が立ち上がり、ストライキをした美談を特に強調していた。

 アメリカ駐留兵が傍若無人に殺人・傷害・暴行・強姦等を欲しいままにしているとか、一面に書いてあり、失望落胆、読んだ者は皆、暗い表情となった。

「だから、これを読んだ日本兵は、祖国再建の為レーニンマルクス主義を勉強して、軍国主義・帝国主義の一握りの階級と戦わなければならない。」

と結んであった。政治将校は、

「諸君!自由を取り戻すには、諸君一人一人が立ち上がらなければならない。今から民主主義を研究して、このラーゲル(宿舎)に早く民主運動を起し、全ラーゲルに広げるように。」

と言って帰った。

 以来民主グループが生まれ、委員長以下幹部は完全に実権を握り、一時は、日本人に依る人民裁判まで行われる始末。互いに戦友間でも疑心暗鬼となり、不信感が先に立ち、混迷状態となってしまった。

 この時分に私は、ラーゲル(作業所) 文化部長を押しつけられ、演芸会の出し物にする劇の脚本を書き、森本君の協力を得て、どうにか一つのドラマが出来上り上演してもらった。

 あらすじは

「貧しい水飲百姓親娘が、村長や大地主に虐げられていたどん底から這い上り、最後に村長や地主が頭を下げる。」

と云った単純なものだったが、無味乾燥な折とて、割と評判がよかった。人間ドン底に落ちたら、どんな事でも出来るものだと思いつつも、あんなものをと今に冷汗たらたらだ。

 十二月に入って、何の前触れもなく、他の作業宿舎へ移動。腰まで雪に没する山で、伐採作業に従事する。

 ソ聯では、冬季の結氷期間中に伐採・集積するとの事で、積雪の為作業ノルマは悪く、例の如く私が叱られ通しで、最後には、減食が始り、灰色の時を過ごす。

 民主主義とか、人民は主人公とか、国民のための社会とか云っても、こんな不公平な矛盾だらけの社会ではないかと自問自答するだけで、相手が悪くどうしようもない。だから出来るだけ、敵さん方の物を頂くことにする。作業帰りに警戒兵の隙を見ては、用便に行く振りして、雪を覆った大豆を、素早く外套の内へ、少量だが持ち帰ったり、人参を引っこ抜いて帰ったりして、うっぷんを晴らしたものだ。

◆ 第一回ダモイの気配

 或る駅で貨車積み作業中、貨車の窓から多勢の日本兵が顔を出しているので、警戒厳重で近寄れないから、遠く隔てて話をした。

「どこへ行くんな。」

と問へば

「日本へ帰るんだぞ。」

「頑張れよ。」

「お前等も、直き帰れるぞ。」

と言う。どこまで信用してよいのか判断に迷うが、「帰れるのでないか」と、何となく期待するようになった。

 作業場でも鼻歌を出す者あり。 帰りの歌にも何となく張りが出てるように思われた。吉田正氏の歌「異国の丘」「七つの湖」が何時も歌われた。

 気持ちが張り切ってはいるが、栄養失調の兆が見え始め、顔や手、足首が腫れ、反対に、助骨は一本々々勘定出来るようになっている。少し力を入れて作業をすると、直ぐ疲れて、息切れがする。私だけでなく、戦友は皆そうだと言う。

 だから病人が続出し、「入院さす」と言ってどこともなく連れ去られる。入院した者は、元隊へ戻った事はない。病院は、どこにあるのやら、何と云う病院やらさっぱり判らない。よくなって帰ったとも、死んだとも聞くこともなかった。

 余りにも騙され通し、栄養失調と不安が着き纏う中で、絶えられなくなってか、大胆にも脱走する者もいたが、広いシベリヤ大陸の事、捕まったのか、殺されたのか、重労働囚人刑務所に収容させられたのか、秘密の徹底した国だけに不安が募るばかりだ。

 七月に入ると、日中は暑いが夜間になると冷気が身に浸るようになる。八月始めになって、未明には薄氷が張っている。大体現在地は沿海州近くの山中だろうと想像がつく。一般人の話からも、ソ聯兵の話からもウオーロシロフの地名が出ていたので。

 夜間になると、よく狼が近く迄来て、何十頭も群をなして咆哮する。犬と違って

「ウォーーー。」

と語尾を長く引く声で判る。無気味さで身が引締る。ソ聯兵は慌てて、声のする方向へ一斉射撃する。と、声は段々と遠退き、元の静寂に返る。狼は、死んだ動物を絶対に喰わないそうで、喰い殺して、白骨にしてしまうとの事だ。狼が相手を倒すときは、始めから喰いつかず、ボス的な狼は、最初獲物の上を飛び越すと、次々と続いて飛び越し、獲物は恐怖の余り気絶し倒れると素早く寄ってたかって喰い千切り、白骨にしてしまうそうだ。何でも上を飛び越す時、小便を掛けたり、砂を掛けたりするそうだ。

 山林へ入ると、昼間というのに薄暗く、日本で想像もつかない原始林で、名も知れない大きい茸類・モミの木・唐松・蝦夷松・白樺の大木等が空へ空へと伸びて居り、自然の猛威、雷、台風等で、何百年も径た古木が倒れ、その跡へ、若木が競うように空間を埋めている。沿海州は、涯しなく山脈が延々と続くスケールの大きさは想像もつかない。日本の木材業者に見せたら「ウーン。」と唸り、垂涎間違いないと思う。

 ソ聯人は、菓子類がないので、間食として松の実を常用としている。実に器用に口中で皮と実を選り分けて、皮だけをピヨイピョイと外に吐き出す。私もやってみたが、とても足元にも及ばない。

 この松の実採りに行かされ「登れ。」と云われても、誰も登ろうとしない。仕方なくぼやきながら自動銃で一斉射撃、大きな松笠を落とす。忽ち小山のように集まる。警戒兵は大喜びして幕舎(宿舎)まで持たされる。彼等は、この実を煎ってポケットに入れて置いて、何時もムシャムシャと口を動かしている。一般人も同じで、最初見た時、不衛生な奴等だ、唾液(ツバ)ばかり吐いてと思ったが、松の実の皮を吐き捨てていたのだ。

◆ 又々民主主義教育

 政治将校が、度々やって来て、通訳を通じて、レーニン・マルクス主義・共産党小史・史的唯物論を解き、新しい日本新聞を配って「勉強したら早く帰れる。」と云って帰って行った。

 新しい日本新聞には、誰にでも解るように、日本共産党員徳田球一氏の秘話を詳細に書いてあり、社会主義・共産主義の長所を、子どもにでも読めるように、細かに解説してあった。一方資本主義の矛盾、欠陥は、倫理的に必ず行き詰ると書かれており、天皇制・軍国主義・帝国主義の悪徳をも羅列して居り、共産主義・社会主義の社会では、労働者・農民は主人公であり、搾取のない社会、人民の為の社会だから、益々発展するとの事等が書かれてあった。

 併し、第二次大戦直後とて、食糧を始め総べての物資の不自由なのは、お互い様で理解出来るが、教育・生活程度の低さは、歪めない事実である。

 又、共産主義・社会主義国がよい国なら、これらをどう説明するのだろうか。或る建築現場で作業してた時、中年の労務者は、跛を引き引き作業しているので

「なぜ病院へ行って診てもらわないんだ。なぜ休まないんだ。」

と聞くと

「余程の病気でないと、医者は病人と認めてくれず。作業を休めば黒パンが入らないから。」

と、淋しそうに云った。

 又、働く量(ノルマ)によって食糧の配給にかなりの格差があり、一般労働者は、不平も不満も言わずに働いている。話と言えば、仕事の話か、食べ物の話ばかりで、仕事の不平不満は云えない。政治向きの事も話しが出来ない。絶えず誰かに監視されているからだ。仕事の不平や不満、政治批判でも言おうものなら、一時間も経ずにゲ・ペ・ウに引張られるからだ。

「民主主義の勉強したら早く帰してやる」と云うから、早く帰りたい一心で、勉強して居るような顔をする。 本気でないからから目を通す程度。 読んでいたらいい。政治将校が回って来ては、黙って頷きながら笑顔で帰って行く所を見ると、彼等の好感を得た事は事実だ。

 ダモイ(帰る)の話は、少しもされなくなり、又欺されたと諦め、「民主主義より命が大事。」と、少しの時間でも睡眠をとることにした。政治将校も余り回って来なくなり、良い安配だと、誰も勉強しなかった。

◆‎ 戦車に轢殺された日本兵

 或る作業帰り、疲れ果てて重い脚を引きずって来る途中、演習帰りであろう重戦車の一群が、軣(ゴウ) 々と地響きをさせて通り過ぎた直後、後方が急に騒々しくなった。

「戦車に轢れたんだ。」

と声がする。自分の班員ではないかと駆けつけて見ると、他所の班員で、防寒帽・防寒外套・防寒靴を着用したまま紙のように薄くなって地面にへばり付き、白い雪を真赤に染めていた。班長や戦友がおろおろして泣くばかりで、警戒兵は「早く遺骸を運べ。」とばかり、

「ビイストラ、ビイストラ、ダバイ。」

と手真似する。近くの林の中に穴を掘って埋めた。堅い氷った土なので随分時間がかかった。皆、合掌して心からご冥福を祈った。

 この戦友も、故郷には親兄弟もあるだろう、妻子があるかもわからぬ、九死に一生を得かて今日まで永らへ、突然このような事故で死ぬとは、夢にも考えなかったろうに。命の儚さをつくづく考えさせられた。

 原因は、疲労で居眠りしてたか、 防寒帽で耳を覆っていて戦車の音を聞き違えて、道路の中へ寄り過ぎていたからだろうとの事であった。

 後で、ソ聯側に交渉に行ったそうだが、問答無用の態度で、受付けなかったとか。完く犬死で気の毒なことだった。

◆ 第二回目ダモイの気配と大島出身歯科医小山慎吾氏との出会ひ

 昭和二十三年に入ると、 又々ソ聯兵が「東京ダモイ。」と盛んに云うようになる。ひょっとすると帰れるのではないかと、一日千秋の思いで吉報を待つようになる。

 この頃、偶然にも移動先で小山慎吾氏と出合った。今、串本で歯科医院を開業している。兄弟三人出来たのも同然、嬉しくて又々森本氏との時と同様、三人で大島・串本・新宮・勝浦と昔話に花が咲いた。

 軍医として収容所内の健康管理に当っていたが、間もなく、「東京ダモイ組。」と云う部隊付となって別れを告げた。

「日本へ帰ったら、元気で居るからとお伝え下さい。」

と、お願いしておいた。帰還して判ったが、小山氏から話があって、死んだと諦めていたのが、生存確実と、家の者は小躍りして喜んだとのこと。

◆ 第三回目ダモイの気配

 シベリヤで三度目の夏を迎えた頃から、食事が良くなって来た。不思議に思った。ラーゲルでは、色々取沙汰されたが「近く日本へ帰すから、少しでもよい印象を与えるための、遠大な施策かも知れない」との結論になった。

 伐材・集積・道路建設・炭坑・貨車積・建築と、毎日々々ノルマで追い立てて、何故このような過酷な労働を強制して来たのか。 我々日本兵のみならず、ドイツ兵にも。 僅かな食糧で大きなノルマを要求し、生命を摺減(スリへ) らすような事をしなければならなかったか。

「働かざる者食うべからず。」

の考え方とは思うが。食糧まで与えて、遊ばせて置くのがもったいなかったのかも知れない。万国国際法では

「戦争捕虜には、思想の自由を束縛したり、労働を強いてはならない。」

と、明記してあるとの事なのに……。第二次大戦での手痛い打撃の復興力を、日本兵・ドイツ兵の捕虜で補ったようだ。流石に、米軍は強制労働させなかったようだ。

 入ソ以来一貫して、朝、黒パン一切れ、鮭の塩汁。昼、重湯飯盒の蓋に軽く一杯、野菜スープ。夜、重湯飯盒の蓋に軽く一杯、野菜煮少々、鮭の塩津。

 日によって献立は若干違うが、これでは腹を満たせないので、乞食は拾い盗んで満腹感を補ったり、例によって、食べ物のお国自慢に花を咲かせて、何時の間にやら寝入ってしまうの繰り返しだった。

◆ 帰国本決り

 この頃になると、妙に、ノルマをやかましく云わなくなって来た。住民達も、私達の顔を見ると

「ヤポンスキー。東京ダモイ、マーロダー。オーチンハラショー。」

と、盛んに云うようになった。

「日本人は、もう少しで日本へ帰れる、大変けっこうだ。」

と云うことです。本当だろう。嬉しいなア。と思う反面、又欺されるのではないかと、不安にもなる。

 鳴呼。遂に待ちに待った”引揚げ命令”が・・・。

 今迄の全員集合とは違い、不要物は一切持たせない。大事にして来た空き罐(茶わん代り)も放り出し、焼ける物は皆焼き払った。

 ソ聯将校も兵隊も、終始笑顔で

「ダモイ、ハラショーダー。」

を、連発する。今度は絶対間違いなし、皆んな子どものようにはしゃぎ回ってた。

 米国製マシーン (トラック)に乗り込んで駅迄。 停車中の貨車に、例の如く寿し詰めに乗り込まされた。

「オイ。本当に帰れるんか。」

と云った誰かのように、私の心にも一抹の不安が出る。

半日位走っただろうか、ガタッと停まった。

「どこや、どこや。」

「あわてんな。黙って待てよ。」

「動いたら腹へるだけや。」

等々、結局朝迄動かない。もどかしいが、貴方まかせで、どうも仕様がない。これは、例によって命令を受けているらしい。六日位かかってやっと下車命令。

 港が見え、船の汽笛も遠くで聞える。夢に迄見たナホトカ幻のナホトカ、遂に到着した。出迎えの日本兵も

「間違いない。次々と上船している。」

と云ってくれる。

「併し、命令に違反したり、統制を乱すよな事をしたら、又後方へ送られるぞ。」

と、心臓の止るように、釘一本差される。ヒャッとした。

 歩く事しばらくして収容所に着く。流石最終収容所だけに、整理整頓は行き届き、入口には、ソ聯国旗の赤旗がたなびいていた。

 数年振りに、毎日の入浴、洗濯で、身辺の整理をして、汚れたボロボロの衣服類も新品と交換してくれた。旧関東軍から押収していたものだ。

「反ソ的な言葉を絶対出すな。」 これは、日本兵の中にもスパイがいて、ソ聯側に筒貫けに判り、反ソ分子と睨まれて、直ぐ後方へ送り返され、何時帰国出来るやら判らないからとのこと。次の引揚船が入港する迄、充分準備するようにとの指示もあった。

 遠い中央アジア方面から順次引揚げを開始して、ハバロスク・タシケント等と、最後に沿海州・ウラヂオストック付近と、引揚げるようだ。

落着くと「祖国帰還の実感。」が湧いて、気持ちが浮き浮きして来、心は早や故郷串本へ飛んでいる。

こゝナホトカ収容所は、約千名余り収容出来るようで、海の香りが紛々するし、一万屯位の巨船も数隻、赤旗を掲げて岩壁に横付けしている。海岸に生まれ、海辺に育った私は、抑留されている身も、暫し忘れる位だった。

二日して、日の丸を掲げ、船腹にも大きく日の丸を書いた引揚船興安丸が、遥か彼方から入港して来る。 思わず目頭が熱くなって、興安丸が霞んでしまう。

翌日は、以前から待期していた約七百名位が、装具を持って隊列を組み、喜々して門を出て行った。ゲ・ペ・ウ(憲兵)政治将校や警戒兵が両側に並び、人員を調べる。

我々なら四列に並び、号令をかけ、最終番号の○欠で、即坐に○○○名と答えが出るのに、五列に並べて、五・十・十五と勘定して、将校以下行ったり来たりで、何度も計算し、兵や下士官の答えを総合して、始めて確認する。兎に角、日本人には想像もつかない事なのだ。作業中に警戒兵をからかった。つまり、五・十・十五・二十と勘定している時、「ウアー。」と騒ぎ立てると、 勘定が判らなくなり、又元から勘定仕直しをする。初めの方ならいゝが、終り頃になってさわぐと、元からやり直すが、「エビオノマーチ。」(此の野郎とかヤカマしいの意)

と、銃を振り上げて怒って来る。程度の低さにはあきれる。

日本人には想像もつかない事です。

午后になって、遠くで出港の汽笛が、何度も何度も鳴る。

帰える者には嬉しい音だろうが、残る者には、悲しい音に聞

えて、感無量である。

◆ 引揚船に乗船す

 更に一週間して、やっと念願の全員集合。人員点呼を受け門を出た。五百余名のようだった。 何度か夢に見た引揚船大きく書かれた遠州丸の文字も、いつしか涙で曇って見えなくなる。待つこと暫し、やがて一人一人タラップを駆け上って行く。栄養失調で重かった足取りも、今日に限って猿のようだ。思いは皆一つだ。

 タラップを上ったら、ゲ・ペ・ウ将校等数名が立っていた。日本側からは、厚生省係官、船長、航海士、船員がずらりと並び、深々と頭を下げて

「永らくご苦労様でした。」

一人一人を心から犒ってくれた。嬉しさと懐しさが交錯して、ぐっと胸に込み上げて来る。広い船を指示された通りに、船室に落着いたが、誰一人甲板に上ろうとしない。じっと座ったままだ。それは、万一にも間違えられて、ソ聯兵のダバイで呼び戻されてはと恐れ、皆一様に動こうともしないのだ。痛い程わかる。

 機関を掛け放しなので、直ぐにも出るかと思っていたのに、なかなか出発しない。早く岸を離れてくれないかと、心で祈っていた。横になっている者、三々五々塊って何か話し込んでいる者、装具をいじっている者、様々だ。私も横になった。 機関の振動が心よい。とろとろしたのか、永い事眠ったのか、ハッと気がつくと、機関の振動大きく、

「オイ、出港だぞ。」

の元気な声。鈍い汽笛が、

「ボー、ボー。」

と、何度も何度も尾を引き、ナホトカの港に山々に木霊して

「早く帰れ。早く帰れ」と、云ってるように聞える。

「永かった過去の悪夢は兎も角、ソ聯よ、シベリヤよ、ナホトカよさようなら。」万感込めて物を云ってるようにも聞える。

 一人立ち、二人立ち、皆ぞろぞろデッキに集まり出した。小さくなさくなる迄、ぼんやりと眺めていた。十人十色と云うが、シベリヤでの苦しかった事、悲しかった事、恐しかった事等、浮んでは消え、消えては浮んでる事だろう。瞑想にふける者、唯じっと航跡を見つめている者もいる。

 余りにも永かった捕虜生活、我々日本人には、何の自由もなく、意志に反して、強制労働をさせられ、体が悪く、寒気がしても、三十八度以上の熱がないと、病人と認めてもらえず、「作業を休ましてくれ。」と訴えても

「エビホーマーチ、サボーター。」

と云って罵倒される。暗い暗い思い出ばかり、よくも命を永らえたと、吾ながら不思議な位いだ。情無用で厳格な兵、理解ある温厚な兵、吾々を犬・猫のように扱う兵、親しみ易い親切な地方人。だが、どこかで目が光っているのか、地方人は落着きがなく、快活な面が余り見られなかった。

 様々な姿が、顔が、走馬燈のように浮ぶ。戦死、病死、故死した戦友の霊が眠っているシベリヤよ、さようなら。亡くなった戦友に「誠に相済ぬ事です。」と、船上から冥福を祈った。

 寒さにハッと気がつき、周囲を見回すと、数える程しか居なかった。慌てて船室に戻ると、皆で船員を囲み、「今の日本はどうなってるのか。」「東京は、大阪は、九州は」と、矢継ぎ早に質問攻め。

「今新聞を賑わしているのは、帝銀事件、買い出し、暗相場、物価高等です。」

と、素直に云ってくれました。

「でも、もうソ聯とは関係ありません。ご安心下さい。本当にご苦労様でした。」

又、

「この船は、舞鶴へ入港します。」

と云ってくれた。これで祖国の土が踏めるのだ。気持ちが浮き浮きして、何を云われても上の空。張り詰めていた緊迫感から解放されて、無性な睡魔に襲われ、いつの間にかぐっすり眠ってしまった。誰もが、眠るわ眠るわ、まるで眠り病に患ったようだ。

◆ 祖国日本、舞鶴に上陸

上船3、4日目だと思うが、船内は急に賑やかになって来た。

「内地が見えたぞ。内地だぞ。」

と、叫ぶ声に、我先にと甲板へ駆け上った。『見えた。見えた。』遥か水平線上に、雲のような陸地が見えて来た。

「内地だ。日本だ。」

肩を叩き合い、抱き合って、踊っている者、喰い入るように見詰めている者、涙をためている者、いつれにしても嬉しさがこみ揚げた証である。

 陸地が段々と鮮明になって来る。漁船も何隻か、手を振りながら通り過ぎた。黒かった山々も段々青くなり、緑になって、やがて家並が見え出し、船足が遅くなって、静々と入港。アンカーがガラガラと降された。

 検疫のランチから十名程が駆け上って来た。間もなく大きな艀が横付けとなり、検疫も簡単に終って、愈々列をなしてタラップを降りる。ポンポン船に引かれて埠頭に近着くと、和服にモンペ姿の婦人会の人達は、手に手に小さな日の丸を振って出迎えてくれる。一般群集の人波、瞼の母を偲ばせる老夫婦、子ども連れの婦人、子ども達と、黒山の歓迎。よく見ると、婦人、娘の化粧はケバケバしく、真紅な口紅、細い眉毛。私達は、戦時中のイメージしかないので、清素な大和撫子の映像も崩れてしまった。併し、今の私達には、そんな事はどうでもよかった。桟橋から祖国の土を強く強く踏み締めつつ、胸一杯祖国の空気を吸い込んだ。この感激は、一生を通じて忘れる事がないだろう。

 近県の出身者達は、多勢の肉身者の出迎えを受け、声にはならず、只抱き合って号泣するばかり、思わず貰い泣きする。押さえても押さえても胸から突き上げて来る。

 やがて引揚寮に入ると、行事の多い事引切りなし。久振りの赤飯の美味しかった事、おかず、味噌汁と舐めるようにして平げる。

健康診断では、

「貴方は栄養失調だから、帰られたら充分に休養を採り、食事もカロリーの高い物を食べないと、命の保証は出来ませんよ。」

と医師から云われて、急に疲れを感じて、歩けば息切れがする。ここで寝込んでは大変と『何!これしきに。』と、気を取り直して力んでみる。後は、風呂と洗濯に明け暮れる。忘れていたが 上陸して初めて飲んだ水の旨かったこと、身に泌み透るようだった。

◆ 惜しき戦友との別れ

 四日経て、愈々帰宅することになった。援護局から串本の実家へ、電報を入れてくれたとのことだった。

 今日迄生死を共にして来た、励し合い慰めあって来た戦友と、いや、ブルガジールとして、大過なく責任を果たしてくれた班員と愈々の別れ(殆ど東北出身と)又の再会を約し、堅い堅い握手を交わす。

「体に気をつけて。」

と、西に東に別れて行った。お互い気もそぞろだったのか、住所を書き交すのを忘れてしまったのは、残念至極。折に触れ、どうしてるかなと思っても・・・。万事休すだ。

 引揚げ証明さえあれば、国内何処へ行っても無料との事だったが、援護局から百円たらずの金額を受け取る。

 途中の駅々では、必ず二組や三組の帰還組で、涙の対面。その度に熱いものが込み上げ、暫し瞼を伏せる。

 大阪駅、天王寺駅と来るまでは、爆撃の跡が、痛々しく眼に映る。乗り込んで来る老若男女は、申し合わせたように大きな鞄やリックサックを背負った人々、その混雑振りには驚いた。『これが聞いた買い出し部隊。』かと、変な所に感心して見ていた。

◆ 故郷串本へ

 天王寺駅からは、想い出多い、懐しい駅を通過、早や田辺も過ぎ、周参見、見老津、江住、和深、田並、有田、遂に来た来た。そして、夢にまで見た懐しの串本駅に到着。

 改札口を出ると、母・妻・弟・妹・親戚一同の顔々々、言葉より先にもう恥や外聞も見栄が無かった。涙、拭っても拭っても、止めどなく流れて、何も見えない。長男惣司は、出発の時には何も知らない赤ん坊だったのが、四歳となり、大きく成長してたのには、先ず驚いた。思わず抱き揚げたが、暫くして、手が痺れて困った。栄養失調のためだ。少しフラフラした。

あとがき

 第二回召集を受けてより、今串本駅に降りたつまで、僅か三年間余り四年に足らない歳月だが、三十年以上の年月を過したかと思う程波瀾万丈に富んだ歳月だった。

 人間の生命力って、もろく儚ないようで逞しく、逞しいようでもろいもの。今日あっても、明日は亡いかも知れない。尊い命を、お互い更に更に大事にして欲しいものです。

 平和を愛好する日本民族よ、永遠の平和を維持して欲しいと、心からお願い致します。

昭和五十一年八月十二日

ーー 完結 ーー

お礼のことば

回顧録完結に臨み、拙い作文を改竄して戴きどうにか単本に出来上がった事も偏に浜中先生の惜しまぬ協力の賜物であり、又素朴な感想を寄稿してくださった串本高校の園部先生並びに大阪在住海老江氏諸兄にも心から感謝し、有難うの一言があるのみで改めて御礼申し上げます。

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